小川よういち【サハリン残留邦人のために立ち上がった男】アンビリバボーで特集!
2020年1月30日(木)の19:57から放送される「奇跡体験!アンビリバボー」で特集されます。
小川よういち「サハリンの日本人」とは、戦争で樺太やシベリアに残され家族と離ればなれになった日本人のために「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」の創立者。
小川〓一さん死去 樺太残留邦人帰国尽力 (東京新聞) 戦後、旧樺太(ロシア・サハリン)に取り残された邦人の帰国運動に尽力した元日本サハリン同胞交流協会(現日本サハリン協会)会長の小川〓一(おがわよういち)氏が三十一日、肺がんのた… https://t.co/DVq9FgXkE0
— 最新速ニュース 総合版 (@SSSN_ews) July 31, 2017
今は亡き小川さんが残したものとは?
受け継がれてゆく思いを紹介します。
コンテンツ
小川よういち【サハリン残留邦人のために立ち上がった男】アンビリバボーで特集!
小川よういちさんの出生からまとめました。
1931年10月 | 樺太大泊町谷町(現サハリン州コルサコフ市)で出生。 |
1950年4月 | 衆議院速記者養成所に入所。 |
1951年9月 | 一級速記士となり日本経済新聞社に入社。 |
1957年3月 | 中央大学法学部卒業。 |
1959年5月 | 日経新聞労組書記長として専従。 |
1961年 | 7期新聞労連書記長。 |
1968年6月 | 日本経済新聞社に復職。 |
1989年12月 | 「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」創設(事務局長)。 |
1991年7月 | 「外務大臣表彰」を受ける。 |
1991年10月 | 日本経済新聞社を退職。 |
1992年12月 | 促進の会を「日本サハリン同胞交流協会」に改組(事務局長)。同胞の一時帰国,永住帰国活発化。 |
1999年6月 | 協会の「特定非営利活動法人」(NPO法人)資格取得。政府からの委託費で事業を進める |
小川さんは、小学校時代に北海道小樽市に転居しています。
小川岟一氏85歳(おがわ・よういち=元日本サハリン同胞交流協会会長)7月31日、肺がんで死去。告別式は8月9日午前9時30分、東京都渋谷区西原2の42の1代々幡斎場。喪主は妻、芳子(よしこ)さん。樺太・大泊生まれ。協会活動でサハリンやシベリヤなどの残留邦人の帰国事業に取り組んだ。
— ヒシロロ (@Hishiroro) August 1, 2017
辛い戦争を経験し、敗戦後にサハリンに取り残された日本人の存在を知り、国と戦う決意をするのです。
小川よういち【サハリン残留邦人とは?】
「私は、日本人です」
’88年、日本からの墓参の一員としてサハリンを訪れていた樺太生まれの小川よういちさん(83)は、ユジノサハリンスクの町中で突然1人の女性から話しかけられ、歩みを止めた。
「本当ですか。やはり日本人はいたんですね」
このとき60代半ばだったという、サハリン残留法人1世の野呂静江さん(92)は懸命に訴え続けた。
「ずっと日本人であることを隠して、ここサハリンで生きてきました。私たちが帰国できるよう、日本政府に頼んでもらませんか」
サハリンは北海道・稚内市の42キロ北にある島。1905年、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度より南側が日本領となり、終戦当時まで「樺太(からふと)」と呼ばれ、約40万人の日本人が暮らしていた。
日本国内では’45年8月15日に天皇陛下の玉音放送があり終戦となったが、樺太では8月9日に北緯50度を越えてソ連軍が侵攻。20日に真岡(ホルムスク)にもソ連軍が海岸から上陸、すさまじい艦砲射撃が始まった。ソ連軍奇襲の直後から、日本人の退去は始まっていた。しかし、一部の人は、ソ連兵に敵とみなされて殺されないため、朝鮮人やロシア人と称し、素性を隠して生きるといった人生を強いられることとなる。
その後、’56年まで日ソ間の国交は断絶。’80年代半ばになると、民主化を進めるペレストロイカ政策により、サハリン訪問も一部解禁に。このとき、野呂さんと小川さんは運命的な出会いをした。小川さんは、「帰るに帰れない」事情でサハリンに残留した日本人についてあらためて知り、勤務していた日本経済新聞を休んで、残留日本人を永住帰国させるための活動を始める。
東京で「樺太同胞一時帰国促進の会」を発足させたころ、サハリンでも野呂さんが同胞女性たちに呼びかけ、置き去りにされた日本人の名簿作りを始めていた。そうした努力が実を結び、’90年5月、ついに12人の残留法人の一時帰国が実現。’97年には、野呂さんも三女の一家とともに永住帰国を果たした。このとき一緒に帰国した孫の長尾洋子さん(37)は、永住帰国者たちから“幸せの象徴”と呼ばれるサハリン残留3世で、今も日本で生活している。
引用:女性自身(一部抜粋)
敗戦後に日本人であることを隠し、耐えながら暮らしていた人々の涙の訴えに、小川さんは立ち上がったのです。
終戦後のサハリンで残留邦人になってしまった理由
【女性】
- 女性(特に長女)がサハリンに残された
- 終戦前、ロシア人や韓国朝鮮人と強制的に結婚させられていた
- 子どもを残して自分だけ帰ることができなかった
- 韓国朝鮮人の夫が日本への引き揚げに同意しなかった
- 引き揚げ後の差別や、生活への不安を抱いてサハリンに残ってしまった
【男性の場合】
インフラ維持のためにソ連が帰国を許さなかった技術者が多かった。
一方、引き上げの対象者制限があり、日本国籍を外されてしまったために、引きが下げの対象から外れ放置された人達の存在もありました。
戦後45年、「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」の活動により始められた里帰り・一時帰国事業で、再び日本の土を踏み、離散した親兄弟や肉親と会うことができました。
日本に帰国した後も、日本人による差別で苦しめさせられた残留邦人。
今もなお、この物語は風化させず語り継がれていくべきです。
もう二度と同じことを繰り返してはいけない。
サハリン残留邦人を受け入れられなかった日本政府
樺太からの公式引き揚げは1949年7月に終了する。<再度の指摘になるが>戦争による民間人の引き揚げのうち、最後であった。
しかし、その最終引揚者からは「樺太になお2356名の日本人が残留しており、その内ソ連人、朝鮮人の妻となった者が約1000名居り、他は服役者約500名と、ソ連諸機関に留用されているもの及び残留希望者である」との情報がもたらされた。
こうして多くの日本人が残されたのである。
彼らは国境線が変わることで「本籍地」が外国となり、戸籍上は日本人とは認められない「無戸籍の日本人」となったのだ。
「サハリン残留日本人」はこうして生まれた。
しかし、その存在を政府は認めなかった。残った人々は自主的に残留した。だから日本人ではないというのだ。
こうしてソ連人、朝鮮人の妻となった約1000名は本籍抹消、また国籍の問題で日本の戸籍を得ることができなくなった。
日本人の妻となった外国人妻等は日本に帰国できたが、朝鮮人と結婚した日本人女性は帰る術を失うという事態が起っていた。
自分が日本人である証明である戸籍謄本等を保管していたとしてもそれを隠して生きなければならなかった。
残留者は親の死後見つけた戸籍謄本を棺の中に納め「せめて魂が日本に帰りますように」と祈る例も少なからずあったという。
樺太にあった戸籍は焼かれたり、隠されたりするが、一部はロシア側が保管している。しかし、その返還は進んでいない。
「本来、戸籍原簿なり、戸籍を証明するものを持ち帰るのは樺太庁、国の責任ではないか。残留を余儀なくされた人については早めに、国が本籍を特定したり、名簿の公開をすべきではなかったか。
戦後一歳や二歳で親にはぐれたものに、その証明をせよというのは誠に酷な話である。国が保管している引揚者名簿があるのに、それは十分に活用されていない」
長年、サハリン残留日本人の問題に取り組んできた日本サハリン同胞交流協会元会長、故・小川瑛一はいつもそう憤っていた。
引用:現代ビジネスより一部抜粋
どんなに帰りたいと思っても、証明できるものがなかった人たちは日本政府に受け入れられませんでした。
サハリンでは、日本軍に恨みがある人から差別され、日本の国籍も持てず、「日本に帰りたい」と思いながら辛い日々だったと語られています。
小川よういちが発足した「樺太同胞一時帰国促進の会」
1989年に「樺太同胞一時帰国促進の会」が発足し、同会が国に働きかけた結果、1990年には300人を目標に残留日本人の一時帰国事業も始まり、離散家族の再会が実現した。
この事業により1992年までに371名が一時帰国した。同会は、「サハリン残留者全員の希望がかなうまで続けてほしい」との要望をうけ、「日本サハリン同胞交流協会」に衣替えした。
現在まで延べ3509名が一時帰国し、305人が永住帰国した。一時帰国事業は「NPOに本サハリン協会」に引き継がれ、現在も続いている
引用:現代ビジネスより一部抜粋
小川さんの勇気ある行動で、助けられた多くの人達。
現在は「NPO法人 日本サハリン協会」に名を変えて、活動を続けています。
小川よういちさんは本を出版してます。
敗戦から60年、サハリン(樺太)に放置された日本人や大陸に連行・抑留された人びとの苦難の歴史が刻みこまれ「戦争と日本人」の記録です。
小川よういちの思いを受け継ぐ「NPO法人 日本サハリン協会」
小川さんの亡きあとも受け継がれた「NPO法人 日本サハリン協会」。
HPの現会長の挨拶の中で、サハリンで起きたことが知られてなかったことに驚いたとあります。
NPO法人日本サハリン協会は、23年間サハリン残留邦人の支援活動を行ってきた「日本サハリン同胞交流協会」から活動のバトンを受け継ぎ、2013年4月より活動を開始しました。会長として協会の仕事をするようになって最も驚いたのは、「サハリン」と聞いて何のことかわからない人が想像以上に多かったことです。北方四島の一つと思っている方、「サファリ」と間違えていた方、甚だしきは地名であることを知らなかった方までいました。第2次世界大戦敗戦から70年も経つのですから仕方がないかもしれません。しかし、知られていない最も大きな理由はサハリン(樺太)で起きたことが伝えられてこなかったからではないでしょうか。
現在も活動は続いていて、厚生労働省のHPに「樺太等残留邦人13名が集団一時帰国」が報告されています。
人気番組のアンビリバボーの特集により、知られなかった残留邦人の存在が、多くの人に知ってもらえますね。